ひろしまデザインびと n-3
Hiroshima Designer / creator T.S  2021.06.01 Tue

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孤高の先輩 designer

 

広島のグラフィックデザイナーといえば 私にとって

この人抜きでは語れない。以前務めていた デザインオフィスカワハラ

上司だった T先輩である。

( 身体はデカいけどシャイな本人の希望で、氏名非公開. 笑 )

この写真は、彼の今年の年賀状の画像で、個人的にもとても

お気に入りなので、頼み込んで送ってもらった。

おそらく自宅の極小事務所を、彼自身が撮影したものだろう。

PC画面には今年の干支の「丑」で、洒落の効いたご時世ネタの

キャッチコピーを一行だけ入れていた。先輩らしいデザインだ。

 

 

さてここで彼の、カワハラ時代のエピソードを私が綴ると

途方もない文量になるし、また先輩にキレられそうなので… 笑

それに彼にとって過去はもう、ほとんど意味がないものらしい。

以前、カワハラ〜 NAM時代の仕事・作品もすべて処分したと

聞いたことがある。 人生は常に上書き保存する人なのだ。

 

 

でもね、それでもクリエイター・グラフィックデザイナーとして

彼は凄かった。 カワハラ時代の 5年とその後の NAM時代しか

知らないけど、一般のデザイナーや業界人ではとても理解できない

「域」にいたね。

ちなみに広島のデザイナーで、初めて Mac(Apple Macintosh)を

購入したのは、故 縄田先生(と自負されていた)だけど、たしか

2人目がこの先輩だった。当時、ちょっとした乗用車が買える額を

自腹で購入して、すべて独学でマスターしていった。

広島の印刷屋が DTPを扱えるようになったのは、

それから何年後だっただろうか。

 

 

先日、TVで宮崎駿さんが、エヴァンゲリオンの庵野監督のことを

「 庵野は命を削って映画を創る。」と言っていた。

私が知り合った中で、命を削ってまで仕事、デザインをしているなと

思った人は 2人しかいない。 ペンギングラフィックスの中村さんと

この頃の T先輩だ。この 2人は仕事で確実に寿命を縮めている。

 

 

それにしてもあの川原時代、自分もよく 6年もクビにならず

務めさせてもらえたなと思う。

超感覚的に、非の打ち所もないデザインを組む川原先生と

常にウイットなアイディアを構築してから、コツコツ時間をかけて

仕上げていく T先輩。どこをとっても真逆な、水と油のような 2人が

バブルもちょっとかぶって、次々と大きな仕事をこなしていた。

2人のデザイン力、仕事への意気込みが凄すぎて、入社してすぐ

自分の居り場がないなと思ったけど、幸い MARIOの出店仕事が増え

先輩の手伝いもしながら、なんとか続けられた感じ。

 

 

川原先生のデザインは、彼女なりのルールがあるようでない。

真似したり、アシストするのがとても難しくて諦めたけど

頭のいい T先輩はリクルートの仕事が多く、エディトリアルや

ページものを驚異的にこなしていたので、一緒に仕事していても

とても学ぶことが多かった。

 

 

T先輩が処分したという当時の仕事の作品も、

私がいくつかは所有している。今の時代では予算的にも、

コンプライアンス的にも実現できないと思う、印刷物もある。

四半世紀は経った今でも、隣の机で嘆きながらデザインしていた

彼の大きな背中を思い出せる。

 

 

 

 

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これはこの 2月に別件でメールが来た時、送られてきた画像。

本番前のテスト撮影かな、ほんとに狭いのがよくわかる。

計らずしも椅子に座れば、立たなくてもだいたいのことができる.笑

必然的に合理的になったのだろう。身体はデカいけど猫みたいな人だから

やっぱりこの狭さが居心地いいんだろう。

 

これ見てすぐウケたのは、椅子に掛けてあるセーターが

カワハラにいた頃の 25年は前のものじゃ!ということと、

アーロンチェアの左の膝掛けが外してあること。

この超合理的なデザイン室に、きっと著しく邪魔だったのね。

それを外すまでの経緯というか、流れが安易に想像できるだけに

笑いが込み上げてきて仕方なかった。T先輩らし過ぎて。

 

 

時が流れても、人の良いところというか

核になる個性というものは、変わらないんだなと想った。